税理士 渋谷からの確認事項
民間銀行は、国への貸出は決して安全ではないという中世以来の真実を再認識させられることになった。
また米国は、基軸通貨国の宿命として、国内金融危機だけでなく国際的な金融危機もまた自身の政治的介入なしには解決できないことを痛感することになった。
1994年に発生したメキシコ危機は、B・プランによって累積債務問題をクリアしたかに見えた同国を襲った通貨危機であったが、それは株価、債券、資金市場に即座に伝播していく。
米国は、再びメキシコ危機への対応に追われ、さらにロシア危機で損害を被った大手ヘッジファンドのLTCM救済に、ITバブル崩壊の対応策に、サブプラ1980年代の累積債務問題では、民間銀行による「市場の失敗」と債務国における「政府の失敗」が浮き彫りになったが、メキシコ危機は「政府の失敗」がさらに色濃く表れたケースであった。
こうした失敗に対し、米国とIMFが主導した国際協調救済スキームは成功したように見えるが、その救済モデルへの批判にも根強いものがある。
アルゼンチンはIMFによる救済策を受け入れた国のひとつであるが、2002年にデフォルトを起こして再び危機に直面した際に、IMFが要求した政策を公然と批判している。
その批判の対象となったのは、厳格な財政規律や高金利政策であり、また民営化や規制緩和、貿易自由化、財政改革などさまざまな構造改革であった。
スティグリッッ教授の言を借りれば、「景気減速を不況に、不況を恐慌に」してしまうという批判である。
これは、アジア危機においても噴出することになった。
とくに財政状態が中南米と全く異なるアジアに、同じ処方菱を持って救済に向かったのは失敗であった、という批判は根強い。
だが米国はいかなる軍事行動においても失敗を認めないように、金融支援に関してプライム・ローン問題での対策にと次々に難題に見舞われることになるのである。
金融危機対策における対立世界銀行が「東アジアの奇跡」というタイトルで同地域の驚異的な経済成長を報告書にまとめて公表したのが1993年であるが、その4年後にはタイ・バーツが売り圧力に耐え切れず変動相場制に移行して実質的な通貨切り下げを行い、通貨危機が他のアジア諸国にも波及してアジア経済を一気に冷却化させる「アジア危機」が発生することになった。
タイをはじめとするASEAN諸国や韓国など東アジア地域は、1980年代後半から外国からの直接投資に支えられて輸出競争力を伸ばし高い成長率を達成してきたが、1990年代以降は徐々にその流入資本が短期負債や証券投資が中心となり、また経常赤字が拡大する傾向も強まっていた。
その弱点を見透かされて資本が一転流出に向かうと、アジア諸国の経済はひとたまりもなく壊滅する。
この経済危機に接し、高金利に惹かれてアジアに流入していた短期資本も一斉に引き揚げていった。
タイを発端としてインドネシアや韓国も手痛いしっぺ返しを喰らうことになり、その対応策としてIMFの支援を仰ぐことになった。
海外からの負債性資金や証券投資が活発になったひとつの背景にドル・ペッグ制があった。
タイ・バーツなどのアジア通貨とドルとの間に一定の関係が保たれていれば、アジア諸国が高金利を維持している限り、利鞘稼ぎは楽である。
ヘッジファンドなどにとってはこうした市場は絶好の利益機会となる。
だが、反面でそのリターンに不安が生じれば、そうした資金は即座に資金を引き揚げられてしまう。
この資本構造の脆弱性こそが、アジア危機の本質であった。
危機に瀕したアジア諸国に対して処方妻を書いたのは、累積債務問題や中南米危機と同様にIMFである。
IMFは国際金融の公的機関であり、歴代のトップの座(専務理事)は欧州出身者が就任してきたが、実質的には米国の強い影響下にある。
それはIMFが1945年に設立された際のブレトンウッズ体制構築プロセスを見れば一目瞭然であろう。
米国が英国から金融覇権を事実上奪い取った際につくられたのが世銀とIMFなのである。
IMFは過去の経験をもとに、アジア諸国にも厳しい緊縮型の財政政策などを要求しつつ、緊急支援を行った。
実質的には米国主導のアジア経済再建である。
ここに日本がAMF(アジア通貨基金)構想を打ち出し、独自のアジア経済救済策を実行しようとして、米国と衝突することになった。
米国の覇権を支えたIMFと世界銀行1997年9月のG7において非公式に提唱された日本のAMF構想は、ドル依存からの脱却や円の利用拡大といった米国を刺激する内容であったことに加え、アジアにおける日本の影響力増大を懸念するという文脈で中国と米国との利害関係が一致したために、陽の目を見ることなく、国際政治の渦のなかに消えた。
IMFもまた、自らの存在意義が危ぶまれるという点で、AMF構想には反対の立場を取っていたのである。
中南米諸国の危機は米国の裏庭の重要問題であるともいわれ、また通貨体制もほぼドル圏であることから、米国が主導権をもって対応に当たることにそれほどの違和感はない。
アジアに対しても、地理的にはやや距離があるが、戦後一貫して親米勢力を後押ししてきた政治的秩序を守るためにも、米国はその経済・金融に深くコミットしている。
それが通貨と軍事力でアジア・太平洋のパワー・バランスを保っているという米国の自負の表れであり、そこには同盟国とはいえ、日本の介在を簡単には許さないという意地もある。
日本のAMF構想が「敗北」したのは、金融と政治との密着度における彼我の差であるといえるだろう。
前述のとおり、戦後の国際的な信用不安においてリーダーシップを取ったのは、米国財務省であった。
独立後、初代の財務長官は H (在位1789年)であり、2008年現在の P 長官は第測代目である。
その過程で、プラザ合意を指揮したB、累積債務問題に腕を振るった B、メキシコ・アジア・ロシア危機を乗り切った。
R など、米財務長官は国内の経済問題だけでなく国際金融分野でも大きな影響力を発揮してきた。
一方で、1913年に設立された金融政策の要を担うFRB(米連邦準備制度理事会)は、1950年代まで政治の要求に忠実な機関であり、政策上のフリーハンドをもつ機関ではなかった。
第2次世界大戦中の戦費調達は米国財政にとっても重要な課題であり、設立して日の浅いFRBは、財務省に協力する形で低金利誘導策を採用、金融機関からの買いオペ金利を低水準に抑えて金利水準自体を下げ、政府による低利での調達や借り換えを可能にした。
戦争が終わり、民間資金需要も高まってインフレ気味の環境に転じると、この人為的な国債価格を支える政策も時代遅れとなり、FRBは独立した政策運営を求めるようになる。
そこで財務省とFRBとの間で1951年に成立したのが「アコード」と呼ばれる協定である。
これによって、FRBは国債の買い支えではなく独自の金融政策による政策運営を獲得することになり、さらに公開市場操作は短期債のみに限定されることになった。
財務省は国債管理政策を担当することとなり、ここに財務省とFRBの「棲み分け」が規定されることになったのである。
もっともFRBに対する政治介入はすんなりと消えたわけではなく、議長人事に絡んだ争いはアコード成立後も続く。
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